「農工一体」で郷土の繁栄に 貢献する企業精神

信州伊那谷での工場展開を続ける同社
今も脈々と受け継がれる創業者の想いに迫る

 

KOA株式会社
代表取締役社長
花形 忠男 様
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取締役最高投資責任者
草刈 貴弘

 

生糸産業が基盤となった伊那谷の物づくり
草刈(以下草) 私は多くの企業の決算説明会に参加します。御社の説明会では、何かこう表現は難しいのですが「温もり」や「おもてなし」といった他にはない印象を受けます。当社の社員に聞いてみても、やはり同じような感覚を受けているようです。今日は、そういった御社の社員の方から滲み出てくるものの源泉についてお伺いできればと思います。
それではまず始めに、御社はなぜ伊那谷という地を選んで事業を展開していらっしゃるのか教えてください。
花形社長(以下花)それには、当社の創業者である向山一人について、まずはお話をする必要があります。農家の二男として生まれ育った創業者は幼き頃より、貧しかった伊那谷を何とか盛り立てていきたいと考えていたようです。貧しい農家なので、家は長男しか継げません。二男や三男は都会に働きに出ざるを得なかった。そうした労働力をこの地で吸収して家族そろって暮らせるようにしたいという「農工一体」の考え方が創業の精神です。
創業者は東京へ出て苦学をして電気の勉強をし、自分が学んだ知識を基に創業しそれを地元に持ち帰ったのが、当社の始まりです。実は数年前に、創業者の19歳の時の詩が見つかりました。その中の一つに「小作人が地主のところに小作料をまけてくれと言いに来ている、しかし地主も囲炉裏端で青い顔をしている。」という詩がありました。あぁ、創業者は本当にそういう想いをずっと持っていて、この会社を創ったんだなぁと改めて感じました。

▲左:弊社取締役最高投資責任者 草刈 右: KOA株式会社 代表取締役社長 花形様

 この伊那地域を始めもう少し北に行った諏訪地域でも精密機械関連の世界的な企業がいくつもありますが、これは御社と何か関係があるのでしょうか?
 この地区は創業者の生家もそうですが、養蚕農家で蚕を飼って繭を作って製糸工場に持って行って現金収入を得るという生糸産業が盛んでした。それが昭和の初期から衰退していきますが、その後、偶然にも第二次世界大戦で東京から疎開してきた、精密機械の工場として使われるようになり、うまく産業の入れ替えが行われました。日本の製糸産業は優れた労務管理や品質管理、生産管理技術を持っていたのですが、それが精密産業を育てる素地になりました。当社の伊那でのスタートの地も製糸工場の跡でした。創業者の想いと時代、たまたま産業の入れ替わりという背景があったというのも大きな一つの要因となっています。いま日本の製糸産業というのは忘れ去られていますが、実は精密産業の礎になっているということも一つです。