認知症への挑戦

認知症老人介護の心構えの為に

小説『恍惚の人』(1972年、有吉佐和子著)をご存知の方は多いと思います。発表当初には大きな社会的反響があり、何度か映画化もされました。今でこそ認知症は少子高齢社会である日本の課題の一つと捉えられ、症状そのものや対処方法についての研究が進んでいますが、当時は各家庭のこととして家族が対処せざるを得ませんでした。
小説は介護保険制度も公的支援やサービスもない時代です。主人公の昭子は認知症になった舅・茂造の介護をすることになり、勤めていた法律事務所を休み休み対応します。商社勤めの夫信利は実父の変わり様におののき、自分の将来を憂慮するばかりで役に立たず、一人息子の協力的な行動に昭子はかろうじて気丈を保ちます。小説に出てくる事象は認知症専門医が見ても実にリアルな認知症介護の実態を表していると評価されており、介護経験のない方でも介護者の心理的、身体的負担の一部を仮想体験することができます。
私が認知症の母と過ごし、ご近所の方々の協力をいただく中で、幾つか認知症介護の実例を伺いました。こうした話をもっと前に聞いていれば、精神的な動揺や母に対する心無い言動をもう少し抑えることができたのではないかと少し残念でした。しかし体験談を聞く機会はそうあることではないので、介護適齢期にある方は改めてこの小説を読まれてみてはどうかと思うのです。

認知症の実体

研究途上にある認知症ですが、現時点で認識されている実体は、「一度獲得した知的能力(記憶、認識、判断、学習など)が脳の変化によって低下し、知的な面で日常生活に支障をきたす病気」となっています。症状は①記憶障害や判断力の低下などの「中核症状」と②身体状態や環境が影響して出現する睡眠障害・妄想・幻覚・徘徊・弄便等の不潔行為・易怒性といった「周辺症状」があります。①は病気の経過に伴い進行しますが、②は安心して生活できる環境の整備や介護者の対応方法、向精神薬の使用などで軽くすることが可能です(対応や薬の処方が不適切なら逆もあり得ます)。
一言で「認知症」といっても、脳の病変要因によって複数種類に区別されています。認知症の約6割を占めるアルツハイマー型認知症(以下、AD)は脳の神経細胞が老廃物によって傷つけられ減少する脳萎縮性変化のグループに属し、他にもレビー小体型認知症や前頭側頭型認知症というものがあります。別に血管性変化のグループがあり、脳梗塞などで脳が部分的にダメージを受けることがきっかけで発症する血管性認知症もあります。

認知症人口動態と経済的影響

ADインターナショナルによれば、世界の認知症患者数は約5,000万人(2018年12月)で、2030年には約8,200万人に達すると予測しています(増加率は年4.2%)。また認知症にかかる社会的コストは、世界で年間1兆ドル(約100兆円、2018年)になっており、2030年には倍の2兆ドル(約200兆円、増加率は年5.9%)を予測しており、世界的に対策が求められています。
認知症にかかる社会的コストは3つの項目に分けられ、①医療費、②社会的ケア費用(日本の介護保険制度のサービス費用に相当)、③家族などのケアによる費用(無償介護:どれだけの時間を当てたかで費用を算出)です。国を所得の高低で分けた場合、①はほぼ横並び、②は高所得国ほど高く、③は低所得国が圧倒的に高いという傾向があります。低所得国は経済活動に労働力を多く投入し、できるだけ国の所得水準を上げたいところですので、高齢化の波が来る前に社会制度の整備をしておく必要があるといえます。日本は社会制度をさらに改善し、認知症の人とその家族が暮らしやすい仕組みを地域社会で作り、提示していくことで認知症介護先進国の一国として世界貢献できるものと考えます。

医薬品メーカーの挑戦

1996年、米国でADの対応薬が世界で初めて承認されました。日本の医薬品メーカーが創出したその薬は「アリセプト」といい、現在、世界100ヵ国以上で承認されています。それまで何も対応薬がなかったため、医師から「暗闇の先に見えた一筋の光」といわれました。この薬は神経伝達物質アセチルコリンの減少を抑えるという症候改善薬で、認知症の進行を遅らせたり失われた神経機能を補って認知症状を改善させたりするものではありません。そこで2000年前後から根本的認知症薬の開発が世界で活発になりました。米国立衛生研究所・米アルツハイマー病協会によると、2000年以降の累計で投じられた資金は約6,000憶ドル(日本円で約60兆円)、挑戦した世界の医薬品メーカーの数は33に及びます。それでも未だ根本的な認知症薬は誕生していません。医薬品メーカーたちは研究開発費と自分たちの財務状況を天秤にかけながら、新薬の創出に挑んでいます。

予防という挑戦

認知症も他の病気と同様、初期段階で発見できればその後の負担が少なくて済みます。認知症検査でよく知られる長谷川式認知症スケールやMRI、PET検査などはある程度認知症が疑われる状態になってから利用されることが多く、特にPET検査は認知症の早期発見には保険適用がないため利用しにくい面もあります。最近では、日米の精密機器大手などが研究開発し、血液検査でAD病変(アミロイド蓄積)の早期検出法を確立しています。今後、健康診断の検査項目に加わってくるかもしれません。
私たち個人も認知症予防に挑戦することはできます。血圧やコレステロール、血糖値の管理をし、軽い運動とバランスのとれた食事をとる「健康的な生活」を基本とすることです。運動は水分補給しながらのウォーキングがお薦めです。色々ルートを変えて脳に新鮮な刺激を与えてみましょう。また睡眠の質も重要視されてきました。2013年米ワシントン大学のYo-Ei S ju博士ら研究班は以下のような研究結果*を発表しています。
「睡眠の質の悪いグループはアミロイド沈着が認められた。沈着のないグループとの睡眠量の差は有意に異なっていなかった」
今後、認知症予防として「質の良い睡眠」への挑戦が注目されるかもしれません。
認知症への挑戦は、世界中の産・学・官・地域・一般市民の努力によって続けられ、「共生」できる社会へ少しずつ近づいていくものと信じています。

*JAMA Neurology(2013: 70: 587-593)

【アナリスト 大澤 眞智子】