
書棚の奥から、一冊を取り出した。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』。1956年、今から70年前にアメリカで世に出た一冊である。色褪せた表紙をめくると、かつて、自分が引いたであろう線が所々に残っていた。
フロムはこの本でこう問う。なぜ人は、愛について何も学ぼうとしないのか、と。仕事も、料理も、運転も、語学も学ぶ。だが愛だけは、いつか自然に「落ちる」ものだと信じている。それは違うのではないか。そうフロムは断じる。「愛は技術である」と。学び、訓練し、習得していくものなのだ、と。
この一節を、いま読み返す意味は大きい。
技術という技術が、AIに代替されつつある。文章を書く技術、絵を描く技術、コードを書く技術、診断する技術、計算する技術、翻訳する技術。かつて人間が長い年月をかけて身につけてきたものが、瞬時に再現される時代に入った。問おう。AIに代替されない技術とは、いったい何だろうか。
答えは、70年前にすでに用意されていた。
愛するという技術である。
ここで誤解してはならない。フロムの言う愛とは、感情の高ぶりではない。誰かに恋い焦がれることでもない。それは「能動的な意志の行為」だ。受け取るのではなく、与えること。気分でも偶然でもなく、自らの意思で選び取り、続ける営みのことを言う。「愛は本来与えることであり、もらうことではない」とフロムは記す。
ここでもう一人、思い出す人物がいる。アルフレッド・アドラーだ。
アドラーはこう説いた。過去は変えられない。他人も変えられない。変えられるのは、自分自身と、これから訪れる未来だけである、と。シンプルだが、痺れる結論ではないか。多くの人は、過去の境遇や他人の言動に縛られて生きている。だがそれらは、どれだけ悔やんでも変わらない。手元に残るのは、いま自分が何を選ぶかという一点だけだ。アドラーはそれを「勇気」と呼んだ。
70年前のフロムが「愛は意思である」と言い、100年前のアドラーが「未来は意思で変えられる」と言う。AIの時代を生きる私たちに、二人の知性が同じことを告げている。
人間に残されたものは、“意思”だ。
意思とは、種を蒔く行為に似ている。種を蒔いてもすぐには芽吹かない。土を耕し、水をやり、季節を待つ。その過程をAIは肩代わりできない。愛もそうだ。十年、二十年、ときに一生をかけて、人は人を愛する技術を磨いていく。
長期投資もまた、意思の営みである。
託す相手を選び、信じ、時間をかけて育てる。短期の値動きに揺れず、企業のその先にいる人を信じ、未来に種を蒔く。お金を働かせるとは、未来を愛するという行為の、もう一つの呼び名なのかもしれない。
フロムの本を閉じた。
愛するということ。
それは意思である。
未来をつくるということ。
それも意思である。
人間にしかできないこの営みを、止めてはならない。
種を蒔こう。今日、この日に。
【取締役副社長 熊谷 幹樹】
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